3-2
chapter 3

ルドゥーの建築思想

3-2. 自然としての建築

 ルドゥーにとって芸術とは「人類をその法則の支配下に置き(P.xi)」、人びとを強大な力で徳へと導いていくものであった。そして、その中にあって、建築こそが最高位を占めるものであり、それとともに、その製作者である建築家は芸術だけにとどまらず人間のあらゆる領域を統御し、世界そのものを改革することができる唯一者であるとも彼は考えていた。

あらゆる知識を集積するこの芸術[=建築]は、その感覚的魅力によって、一般政体、宮廷政治、公衆及び個人の習俗、科学、文学、農村経済、商業を結び付けてはいないのか。[これらの領域を]果たして建築家は無視すべきなのか。太陽と同じ時に生まれ、大地の息子であり、彼が住まう土地と同じほどに古い建築家にとって。人類が誕生したその日、自らを激しい風雨、夏の酷暑、冬の凍てつく寒さから守るため、建築家が必要ではなかっただろうか。世界のはじまりとともに、建築家はその活動を開始したのだ。(L.17)

その根拠を「世界のはじまり」といういわば始源性に求めているところが極めて18世紀的だといえようが、それはともかく、建築及び建築家に絶対的優位を認める《建築至上主義》ともいえる立場は、なにもルドゥー独自のものではなかった。表現の違いこそあれ、それは古代以来繰り返し述べられてきたことでもある。たとえば、「建築 architecture」の語源である architectonicé techné という言葉が示すように、古代ギリシアにおいて、建築術は「上位の術」であり、それゆえに建築家も単なる職人ではない「原理を知る工匠」であるとみなされていた★15。続くローマ時代には、ウィトルーウィウスが次のように記している。

願わくば、建築家は文章の学を解し、描画に熟達し、幾何学に精通し、多くの歴史を知り、努めて哲学者に聴き、音楽を理解し、医術に無知でなく、法律家の所論を知り、星学あるいは天空理論の知識を持ちたいものである★16

そして、そのような建築・建築家観は、時を隔てた18世紀へと引き継がれる。

・・・良い建築家というものは普通の人間であってはいけないのだ。というのは、その芸術に拘束されずに・・・建築に関連する芸術の理論を備えることが大切なのだから。すべてのものが彼の領分なのだ。同様に、文人であること、教養ある教育を受けていること、あらゆる試練に耐えうる誠実さを持っていることが必要不可欠である。ウィトルーウィウスは、われわれが、哲学、実験物理学、医学、音楽の知識を持つことさえ要求していた★17

これは、『百科全書』編纂に当たり「建築」の項の執筆を任されもした啓蒙主義を代表する建築(理論)家 J=F・ブロンデルがその主著である『建築序説』に記した言葉である。彼は、ルドゥーの師でもあった人物であり、当然のことながらルドゥーは彼のこの著作を読んでいたのだろう★18。次のブロンデルの言葉は、『建築書』のテクストになんらの注釈もなく挿入されていれば、ルドゥー自身の言葉と見紛うほどである。

建築は他のどの芸術よりも国家や祖国を繁栄させることに寄与し、建築だけが他のすべての学問やあらゆる分野にわたる才能を動かす★19

また、18世紀を通して広く読まれたマルク=アントワーヌ・ロージエの著書『建築試論』にも同様の記述を見ることができる。

建築とはあらゆる有用な芸術の中でも、もっともきわだった才能、もっとも博い知識を要求するものである★20

これらの言葉からも、ルドゥーの、建築家を「世界の主権者(L.34)」とする態度は、単に彼の傲岸から発せられたものでなく、また、特に奇矯なものでもなかったことがわかるだろう。それはむしろ古典的・正統的とさえいえるものであり、その思想の少なくとも端緒において彼は建築史のいわば本流に位置する者たちと軌を一にしていたのである。ルドゥーを彼らから遠く隔たせているものがあるとすれば、それはそのような建築・建築家観を(語本来の意味で)ナイーヴに信じラディカルに押し進めたところにこそあるのだ。すなわち、建築家は《神》であり、その被造物である建築は《自然》と同一かまたはそれ以上のものになりうるという確固たる信念。

建築は世界を照らす恵み豊かな天体にも似ている。建築にも天体と同じく周期や満ち欠けがある。建築も天体と同じく元素を混合する衝突に遭遇する。その光は天体の光と同じく雲の厚みを突き破り、闇の上に勝ち誇って、このうえない輝かしさと美しさでもって隅々まで照り渡す。その周りには燦然とした衛星が取り巻いて、その光を反射し、引力の釣り合いによって広漠とした宙空に浮かんでいる。・・・この厳粛な様子を目の当たりにして、自己の卑小さを感じない人間、造物主 Créature にも匹敵する建築家にひれ伏さない人間が果たしているだろうか。(L.8)

このあまりに彼らしい言葉は、建築とはその光明 eclair でもって人びとを照らし徳へと導いていく「啓蒙の芸術 l'art éclairé」であるということを当時のいわば最新の知的モードであった---18世紀は芸術をはじめとする人文諸分野と科学とは未分化の状態にあった---ニュートン的宇宙観のもとに謳い上げたものである。彼は多くの球体建築を描いているが、それらはこのような建築=天体説をまさにリテラルに具体化したものだといえよう。だが、ここで注目すべきは、その後半、建築家を造物主に匹敵するものとして捉えていることである。次の言葉はそれをより直截に語っている。

球体をつくりうる神のライバルである建築家は、神よりも多くをなすであろう。(L.103)

自己を神や創造主と同一視するこれらの言葉は、ともすれば単なる誇大妄想として扱われてきた。だが、その根底には先述のように、古典的な視座に基づいた、建築家が有する(べき)力の大きさ、扱う(べき)領域の広大さに対してのルドゥーの自負があるのだ。

建築家は強大な力を有しているのではなかったか。彼はその競争相手である自然のうちにおいて、もうひとつの自然をつくり出すことができる。彼はその思考の偉大さにとって余りにも狭すぎる地上のこの部分に生まれるのではない。天空と大地の広がりが彼の領域なのだ。彼はその領域を覆うため、無限の驚異を集める。彼は創造する。彼は完全さへと到達し、その活動を開始する。彼は想像力から崇高なる偶然を引き起こす新しさへの欲求に全世界を従わせることができるのだ。(L.29)

ただ、ルドゥーの場合、その領域が人間のそれであるにとどまらず神の領域にまで広げられ、それとともに、その力もまた「普通の人間」ではない優れた才能というレベルから神や能産的自然のそれにまで高められたのである。このラディカルさ=徹底ぶりこそがルドゥーと他の建築家を分かつものだが、しかし、それさえも、より広く18世紀の芸術観・自然観に照らし合わせてみれば、彼の内で独自に育まれた妄想として片づけるわけにはいかない。ルドゥーは次のようにもいう。

建築家は模倣者 copiste であることをやめるであろう。・・・彼はその領分を自然と争うのだ。(L.34-35)

なにの模倣をやめるのか。いうまでもなく自然である。芸術は自然の模倣でなければならないとする当時の芸術観がここでは明らかに意識されている。ルドゥーの先の言葉もそこから捉えられなければならない★21

 18世紀は依然として、芸術制作を自然の模倣に求める古代以来の実在論的世界観に基づいた芸術理論を固持してはいたが、それは単なる自然の模写 copie を意味するのではないということは先に述べたとおりである。ルドゥーの言葉をより深く理解するために、ここでは神という概念を中心に改めて当時の芸術観を見てみたい。

 17世紀後半、ルイ14世治下のアカデミーでは、神学的秩序がまだ維持されていたこともあり、たとえばロジェ・ド・ピールやル・ヴランの絵画論にみられるように、自然の対象や効果をいかに再現するか、すなわち所産的自然をいかに「真実」として再現するかが自然の模倣理論の根幹をなすものであった★22。だが、18世紀になると自然の概念が大きく変容する。それはもはや神の被造物としての「理想型の一大貯蔵庫」ではなく、それ自らが「生成するエネルギー、倦むことなく産出する源泉」★23として捉えられるようになったのである。自然は単なる神の被造物などではなく、自らのうちに創造する力を持つ「生きた自然」なのだ。そして、人間もまた、被造物のひとつではなく、それ自身が神や自然に匹敵する創造的力を持つものとして考えられるようになる。このような自然や人間の概念の変化に伴い、自然の模倣をその根幹とする芸術理論も大きな変容を被ることになったのである。

つまり一般的に魂は、被造物から成り立っているこの宇宙の生きた鏡とか、似姿であるが、精神はさらにすすんで、神そのもの、自然の創造主そのものの似姿である。したがって宇宙の体系について知ることも、また、神が宇宙を建築したさいの図面をたよりに、そのいくぶんかをまねすることもできるのだから、精神はどれも自分の領分のなかにおける、小さな神のようなものである。このようにして精神は、神と一種の共同関係にはいることができる。だから、精神にたいする神の関係は、たんに機械と発明者との関係ではなく、君主と臣下、いやむしろ父と子の関係なのである。★24

 これは、18世紀のフィロゾフたちによって再発見された17世紀の哲学者ライプニッツの言葉である。神と人間の主従関係が慎ましやかに保持されているとはいえ、17世紀にはすでにこのような思想が許されていた。そして、18世紀に至ると、その主従関係さえ廃絶される。当時の高名な思想家であったシャフツベリの芸術理論をカッシーラーは次のようにまとめている。

人間は美の観想において、被造物の世界から創造するものの世界への転換を経験する。客観的・現実的なものの総括としての宇宙から、この世界を形成した力、この世界を内的にひとつに結び付けている活動力への転回がここで生じる。・・・美の核心は鑑賞と受容にではなく、創造と造形のうちにこそ求められねばならない。・・・ひとたびわれわれがこの美の源泉を発見しえたときには、単に主観と客観、自我と世界のあいだだけでなく神と人間のあいだの、真実のそして唯一の可能な統合が実現することとなる。なぜならばわれわれが人間を単なる「被造物」としてみるのではなく本来的にそれに内在する造形力の面において、換言すれば創造するものとして把える限りにおいて、人間と神との差異それ自体が廃絶されるからである。★25
芸術は単に事物の外面と現象だけにかかわって、それをできるだけ忠実に模写して満足するという意味での模倣 mimesis では断じてない。芸術的「模倣」の形式は別の分野、いわば別の次元に属するものである。なぜならばそれは製作品をではなく製作の行為を、生成したものではなく純粋な生成過程を模倣するものであるからである。★26

すなわち、18世紀における自然の模倣の本質とは、芸術家がその制作行為において神そのものとなることにほかならないのだ。したがって、ルドゥーの自己を神と称する先の言葉も、当時にあっては涜神的なものでも、特に奇異なものでもなかったはずである。むしろ、同時代の芸術理論に極めて敏感なものの発言としてそれを受けとめるべきだろう。彼は別のところで、芸術の制作行為を「人間がそれによって神となるところの創造(L.30)」とも述べており、この言葉などはそのままシャフツベリの美学理論の線上にあるものとして捉えることができる。

ところで、ここで念のためにいっておけば、「神になる」ことはいわゆるフリーハンドの自由を手に入れることを意味するのではもちろんない。あくまでも創造という行為を通じてこそ、そして自然の法則に従ってこそ、はじめて人間は神となりうるのである。ルドゥーもその点を指摘することを忘れてはいない。

自分自身の強大さを自覚するものは、自らの原理として自然の法則を用いるかぎり、他の誰からなにものも負うことはない。(P.xv)

ルドゥーにとっても自然の法則は絶対のものであり、建築家はそこから逸脱するならば「もはや求める核心へと到達することができない」ものだった。さらに彼は次のようにもいう。

すべての形態は自然の中にある。(L.178)

 つまり、彼が思い描く制作行為の在り様とは、まったき無からの創造ではなく、外部に質料因を求めるいわばデミウルゴス的創造なのである。こうした点からみても、ルドゥーは古代哲学に基づいた18世紀の芸術理論を正しく理解していたといえるだろう。ただ、繰り返せば、彼の独自性は、そのような芸術理論を文字どおりに受けとめナイーヴに押し進めたところにある。創造行為によって人間が神となりあるいはそれを超え出ることができるのなら、そうしてつくられた建築は自然と同じかまたはそれ以上のものになりうるという信念。確かに言葉だけをみれば、たとえ時代の思潮に拠っていたとはいえ、それは妄想とよばれるべきものかもしれない。だが、彼はまた、同じ信念のもと、数々の建築物を描き出してもいる。それらすべてを貫いているのは妄想などではなく、意志、建築を自然の高みにまで引き揚げ、そしてそのことを通して世界を変えようとする意志であり、それこそが彼の建築を独自なものたらしめているのだ。

 《自然としての建築》---これはもちろん形態上の比喩を意味するのではない。18世紀の自然とは、まず第一に、人間のあらゆる領域を導いていくところの善かつ真である力、教訓としての機能そのものであった。ルドゥーの建築はなによりもその機能において自然と等しいものとして構想されているのである。建築によって人々を良き方向へと導いていくことができる。そして、その力は、彼の著作のタイトルが示すように、芸術はもとより道徳や政治にまで及ぶ。

建築家によって救済されえぬものなど、この地上にはいないのだ。(L.103)

建築によって社会/世界を改革しようとする確固たる意志。いみじくも美術史家ジャン・スタロバンスキーは、ルドゥーの建築の在り様を指して「意志の様式」とよんだが★27、《自然としての建築》とはすなわちそのような意志のラディカルなあらわれであり表明にほかならないのだ。

notes / figures
★15
詳しくは、森田慶一『建築論』(東海大学出版会、1978年)161-163頁を参照
★16
ウィトルーウィルス『ウィトルーウィルス建築書』森田慶一訳註(東海大学出版会、1969年)7頁
★17
ジャック=フランソワ・ブロンデル『建築序説』前川道郎・白井秀和訳(中央公論美術出版、1990年)18頁
★18
Anthony Vidler,"Claude-Nicolas LEDOUX." p.376
ルドゥーのアトリエの本棚にブロンデルのこの著作があったとの記録が残っている。ただし、ヴィドラーは、それは記録者の誤りであり、『建築序説』ではなく同じくブロンデルによる『フランス建築 Architecture Francaise 』であったはずだと推測している。
ブロンデル『フランス建築』の扉絵
★19
J=F・ブロンデル、前掲書、17頁
さらに同書には次のような記述もある。「建築がその帝国の下に統べている他の自由学芸の知識」、「あらゆる自由学芸に対する生まれながらの審判者たる建築家」
★20
マルク=アントワーヌ・ロージエ『建築試論』三宅理一訳(中央公論美術出版、1988年)29頁
あまりにも有名なロジエのプリミティヴ・ハット。コンパスと三角定規を抱えしなを作る神話化された建築家に指差されることによって、単なる小屋組が《建築》になる。
一応はショーの共同墓地の立面図と題された文字通りの天体建築。ブレがニュートン廟において宇宙をひとつの内部空間に閉じ込めたのに対し、ルドゥーはそれを関係性のダイナズムとして捉えているのが興味深い。
ブレによるニュートン廟の断面図
ショーの共同墓地、平面図
庭師の家、断面図
★21
ルドゥーのこの言葉について建築史家のヴェルナー・ザンビアンは次のように述べている。「[ルドゥーのいう]自然は、もはやアナロジーではなく、それと同一のものをつくりだすためのプレテクストとしてもっぱら機能する。創造主としての天才の輝きは、自然を新しいものに至るための出発点としかみなさないのだ。人間は創造と想像を通じて〈神〉となる。さらにルドゥーは、この[創造と想像の]結合は知恵によって規定されているともいう。このようにして彼は、アカデミーの言説のあらゆる規律に意義を申し立てたのだ。」Werner Szambien,"Symétrie, Gout, Caractère." picard,1988,pp123-124
本稿では彼の見解にほぼ賛同するが、ただし「新しさ nouvauté」の解釈については異なる。ザンビアンは「新しさ」を主にアカデミーの因習的な理論に対するものと捉えている。だが、ルドゥーの次の言葉を読めば、そうとばかりには思えないのだ。「もし自然が見い出していず[われわれ建築家が]発明しなければならない、そのような神殿を建設することはなんと素晴らしいことであろう!(P.xiii)」 すなわち、彼のいう「新しさ」とは神がつくりだせず自然が見い出しえないという意味でのそれではないだろうか。そのように考えるなら、神−建築家を「父−子」の主従関係とするのではなく、対等あるいは前者が後者を超えるとするルドゥーの多くの言葉も肯えるものとなる。
★22
詳しくは、島本浣「フランス古典主義時代の絵画思想」(篠原資明編『芸術の線分たち』所収)を参照
★23
ジャン・スタロバンスキー『自由の創出』小西嘉幸訳(白水社、1982年)158頁
★24
ライプニッツ『モナドロジー』清水富雄・竹田篤司訳(『世界の名著30』中央公論社、1980年)458頁
★25
エルンスト・カッシラー『啓蒙主義の哲学』中野好之訳(紀伊国屋出版、1962年)392-393頁
★26
同上書、394頁
★27
「ブレ、ルドゥー、ポワイエなどの建築作品や、それ以上に設計図において目を奪うのは、壮麗さ、力強さ、単純なマッスのじつに印象的な使用法、といったものである。ここには新しい雄弁が聞きとれる。・・・われわれが目にするのは、余分なものをこそぎ落とし、マッスとなってみずからを現すことを選択したひとつの意志である。こうして「巨人的」側面でみられた自然に、人間のプロメテウス的意志がつり合うことができる。人間は自然のなかに「自分が模倣する類型」(カトルメール・ド・カンシー)を求め続けながら、ひとつの様式を発明し、それを自然に対置するにいたる。・・・おまけに意志はたんに印象的な単純さを持つフォルムに集中しようとするばかりでなく、建造物の目的をはっきりさせ、いわば個々の建造物の目的性を象徴的に表現することによって、意志の存在を顕示しようとするのである。・・・力と目的性---建築の主意主義のこのニ側面は、18世紀末にしだいに広がっていく知的・道徳的潮流に呼応している。」(J・スタロバンスキー、前掲書、220頁)
あるいは「18世紀末に発達するのは、征服すべき自然と生成する歴史の地平でのプロメテウス的主意主義である。意志は、みずからを展開し物質化すべきあらたな時空を創出するのだ。」(同223頁)
ここでいわれている意志とは、なにに向けてのものか。それは次の言葉が明らかにしてくれる。「意志の発揚は希望に満ち、誕生を待つものにまっすぐに向かう。意志の大いなるテーマとは、建設し、発見し、改良することである。」(同227頁) ここにつけ加えることはなにもない。ルドゥーの意志とは、《もうひとつの自然を》建設し、《新しさを》発見し、そして《道徳を》改良しようとする意志にほかならないのだから。