ルドゥーの建築思想
道徳をはじめとして政治、宗教、芸術などあらゆる人間の領域をより善き方向へと導いていく自然。「啓蒙の源泉であり理性の保証」★1である自然。18世紀のフィロゾフたちは、そのようなピュシスとしての自然の存在を確信し、そして、それに即することによってのみ世界を再建しうると考えていたのだった。これは裏を返せば、18世紀はいまだ自然の法則が失われたままの時代であると彼らが自覚していたということでもある。彼らは自らの時代を「光明=啓蒙の世紀」★2と名付けはしたが、その光は洞穴の暗がりの果てに朧げにみとめられるにすぎず、18世紀を通じ多くの者によって繰り返されたヴォルテールの言葉---「しかし、なんと濃い夜がいまだヴェールを自然にかけていることか」---がよくいい表わしているように、世界全体を遍く照らし出すものではなかったのだ。「光明の数世紀に先行した無知の長い中間時代」★3、その間に自然の法則は(キリスト教に起因する)迷妄した人為や非-理性的な振る舞いによって穢され、ひとびとはその存在さえ忘れるにいたったのであり、彼らの時代もまた、その状況から完全に脱しきれてはいないと考えられたのである。たとえば、ディドロは次のようにいう。
ここでいわれている「自然状態 Etat de Nature 」とは、原始的な文明以前の状態を指すのではもちろんない。彼らフィロゾフたちが規範とした古代や、あるいは大航海時代の到来により発見された「世界の周縁」に暮らす未開人たち---《高貴なる未開人》---の素朴な生活様式を念頭に置いていわれた言葉には違いないが、何よりもそれは道徳的な意味を持つものだったのである。『百科全書』においてジョクールは「自然状態」を3つの観点から分類したが、フィロゾフたちが文明批評を行う際に用いるそれは、そのうちの第3のもの、すなわち「全人類のあいだに存在する道徳的関係にしたがって」★5考察されたものなのだ。
フィロゾフたちがいう「自然状態」とは、原始的・未開的な放縦の状態を指すのではない。それは、自然=理性のみに基づいた、人間が本来そうあるべきところの道徳的状態なのである。
だが、先述のように、そのような自然状態は、古代以降の悪しき文明によって見失われており、数世紀前(=ルネサンスの時代)になってようやくひとびとはそのことに気付きはじめはしたものの、いまだ「古代の蒙昧野蛮」、「無知よりも悪い状態」★7から抜けだせてはいないと多くのフィロゾフたちは考えていた。(実際には彼らの間でも、この点に関して様々な意見の相違---顕著なところでは、たとえばダランベールとルソー★8---が見られたが、いずれにせよ「第3の自然状態」を理想とする限り、自らの社会にはあまりにも自然=理性と相反する規則や制度があり、それらは迷信と権勢欲から生まれたものでしかないと考えていたことにかわりはない。)そして、いかにしてこのような自然状態を彼らの社会のうちに取り戻すか、どのようにして自然=理性の諸法則を迷妄した人為から救い出すかが、彼ら18世紀知識人たちの急迫した課題であったのである。
ルドゥーも、同時代人としてこのような時代観を共有していた。
ルドゥーが理想とした社会は、彼の理想都市ショーに見てとれるように、自然法に基づいた原始的ともいえる素朴な共同体社会である。彼は、ショーでの人びとの生活を次のように描いている。
このような、いわばルソー的社会を理想とする彼にとって、人びとはなによりもまず平等であるべきなのはいうまでもない。ルドゥーは、そのテクストのいたるところで人びとの平等を強調し、また、ショーの第一次案から第二次案への移行---正方形プランから円形のそれへ---は、各建物、そしてそこで働く労働者の配置上のヒエラルキーを解消するためだとも説明している。(にもかかわらず、カウフマンは、この移行を幾何学のより強い自律性をルドゥーが求めたからだとした。それに対し、ヴィドラーは、フーコーに依拠しつつ、この第二次案を、ひとつは監視のヒエラルキーをつくりだす一種のディシプリナルな装置として、またひとつは労働を演劇的行為に転じるための古代劇場のアナロジー---《生産の劇場 theatre of production》として意図的な読み換えを行っている。)★9 だが、当時の社会を見渡すかぎり、そのような「自然」的な平等はどこにも見い出すことはできなかった。
自然の法則が見失われた以上、平等の状態もまた、この社会にありえるはずがない。彼を投獄に導いてまでも遂行されたフランス革命。それによって王を頂点とするヒエラルキーは解体され、その後の社会は一見、平等を謳う共和制に至ったかにみえる。だが、実のところはそうではなく、恐怖政治の到来とともに経済的状況によって別の階級差が生まれただけであった。つまり、王がブルジョワジーにとって代わられたにすぎない。それは、王政の頃のように明白なものではないがゆえに、その差を解消することは一層困難である。ルドゥーはそう考えたにちがいない。
そのような悪しき社会で、「自然状態」、そしてそれに基づく平等はいかにして回復されうるのか。フィロゾフたちは、その手段を法や教育に求めたのだった。ひとびとのうちに人間本性として刻み込まれている基本原理(理性、自然道徳)は同一不変だが、それが習俗として外にあらわれるとき、風土や時代によってほとんど無限の多様性を示す。それは、ちょうど永遠不変の単純な自然法則と、無限に多様な物理的(所産的)自然との関係に等しい。そして、人間本性は変えようがないが、そのあらわれである習俗は、風土や時代、宗教や制度によって相違を示す以上、同じく外部要因である法や教育によって矯正可能なものとしてある。フィロゾフたちはそのように考えたわけである。じっさい、『建築書』のタイトルにも掲げられているように、この「習俗」という言葉は当時のキーワードのひとつであったとさえいえる。ここで、『百科全書』にかかれたディドロによる「習俗」の定義を見てみよう。
習俗は「きまりや指示の影響を受ける」のである。ディドロはさらに、この習俗への外部作用を「修正 modification」という項で詳述し、それに最も有効なのは法であるとした。また、ヴォルテールは、その著書『習俗に関するエッセー Essai sur le mœurs』において、習俗の相違の維持に最も強く作用するのは各々の政治形態であると述べている★11。このように、フィロゾフたちにとって、自然の法則から逸脱した人為は、法や教育---18世紀は「教育の世紀」ともよばれている---によって矯正されうると堅く信じられていたのである★12。
ルドゥーももちろん、この社会を正すことの必要性を強く感じていた。だが、フィロゾフたちとは異なり、その手段を法や教育などではなく芸術に求めたところに建築家である彼の独自性がある。
彼が理想とする社会は、共同所有を基礎とする階級差のまったくない、万人が平等である共同体であった。したがって、社会を正すに当たっては、なによりもまず、ひとびとの間の平等こそが取り戻されなければならない★13。そのときに、最も有効な手段であったのは、ルドゥーにとって芸術だったのである。それはなぜか。上の言葉は次のように続けられている。
ルドゥーにとって、芸術とは本来、人びとの間に差別なくあるものなのだ。そして、それは強大な力でもってそれらの人びとを魅きつける。
平等を謳うわりには決して穏当といえないこれらの言葉は、革命以前のルイ王朝、あるいはまた革命後のナポレオン帝国を思い起こさせる。だが、ルドゥーの思い描く帝国は、美または芸術をただ単にそれらの統治者に置き換えただけではない。一般に帝国の統治形態は垂直的なヒエラルキーをとるが、美の帝国にあってはその形態自体を異にしている。
美をその君主とする帝国は円環状の統治形態を有しているのだ。文字どおりの中心に統治者=美が座を占め、そしてその周りを円を描きながら被統治者たちが取り囲んでいるというイメージ。円の特質は、中心という絶対的な点を持つとともに、その中心に対し円上の任意の点は相互に等価であるということである。すなわち、「その[美の]眼差しは、あらゆるものに等しく降り注ぐ(P.xiii)」のだ。このようにして、人びとの平等は、芸術の「専制」によって回復されるとルドゥーは信じたのである。ショーの円形プランは彼にとって、その信念を文字どおり具体化したものだったといえるだろう。
また、ルドゥーは芸術と自然の関係について次のように述べてもいる。
同時代のものたちと同様、ルドゥーにとっても芸術とは自然に即したものでなければならなかった。そして当時、自然とは即ち真理であった。
真理としての自然とそれに即した芸術---ルドゥーにとって芸術とは、人間本性として内在していたが今や忘れられてしまった自然の法則、「不変なる真理」を可視的・可感的なかたちで人びとの眼前に分け隔てなく外在化させることにより、それらの人びと、そして社会を徳へと導いていくものにほかならなかったのである。
自然だけではなく芸術もまた真理と等号で結ばれる。「自然状態」を回復するためには、なにも原始の状態へと立ち還る必要はない。人びとのうちにおいて見失われた自然の法則は、美として芸術が人びとの外部から与えてくれるのだから。ルドゥーにとって、「芸術と自然とは、[その力において]最も学識豊かな人を欺くほどにも密接な類似関係を有している(L.123)」ものだったのである★14。