3-1
chapter 3

ルドゥーの建築思想

 この章では、前章で概観した18世紀の自然及び芸術を巡る思潮を踏まえ、ルドゥー個人の芸術観・建築思想について考察を行う。
3-1. 自然と芸術

 道徳をはじめとして政治、宗教、芸術などあらゆる人間の領域をより善き方向へと導いていく自然。「啓蒙の源泉であり理性の保証」★1である自然。18世紀のフィロゾフたちは、そのようなピュシスとしての自然の存在を確信し、そして、それに即することによってのみ世界を再建しうると考えていたのだった。これは裏を返せば、18世紀はいまだ自然の法則が失われたままの時代であると彼らが自覚していたということでもある。彼らは自らの時代を「光明=啓蒙の世紀」★2と名付けはしたが、その光は洞穴の暗がりの果てに朧げにみとめられるにすぎず、18世紀を通じ多くの者によって繰り返されたヴォルテールの言葉---「しかし、なんと濃い夜がいまだヴェールを自然にかけていることか」---がよくいい表わしているように、世界全体を遍く照らし出すものではなかったのだ。「光明の数世紀に先行した無知の長い中間時代」★3、その間に自然の法則は(キリスト教に起因する)迷妄した人為や非-理性的な振る舞いによって穢され、ひとびとはその存在さえ忘れるにいたったのであり、彼らの時代もまた、その状況から完全に脱しきれてはいないと考えられたのである。たとえば、ディドロは次のようにいう。

自然状態においては、なすべき選択、抑えるべき欲望には限りがあった。・・・だが、新しい技術、新しい欲求と欲望が生まれてくるにつれて、親切心や寛容の精神は死に絶え、それに代わって強欲と貪欲の精神が生まれたのである。★4

ここでいわれている「自然状態 Etat de Nature 」とは、原始的な文明以前の状態を指すのではもちろんない。彼らフィロゾフたちが規範とした古代や、あるいは大航海時代の到来により発見された「世界の周縁」に暮らす未開人たち---《高貴なる未開人》---の素朴な生活様式を念頭に置いていわれた言葉には違いないが、何よりもそれは道徳的な意味を持つものだったのである。『百科全書』においてジョクールは「自然状態」を3つの観点から分類したが、フィロゾフたちが文明批評を行う際に用いるそれは、そのうちの第3のもの、すなわち「全人類のあいだに存在する道徳的関係にしたがって」★5考察されたものなのだ。

第3の観点からすれば、自然状態とは、一切の服従関係とは無関係に、人間の本性の類似から結果する普遍的関係に基礎づけられた道徳的関係以外には、いかなる道徳的関係も共有していない人間たちの状態である。・・・この状態は、また平等の状態である。そこでは、権力や権限はすべて相互的である。なぜなら、自然の同一の利益にあずかり、同一の能力を有している同一種・同一族の存在のあいだには、明らかに、いかなる従属関係もなく、彼らは相互に等しく平等でなければならないから。この平等の状態は、人類 humanité の義務の基礎である。・・・自然状態は、紀律として自然法を有している。・・・もし人間が理性の意見を充分に聞くことを欲するならば、理性はすべての人間にこう教える。人間はすべて平等であり独立的であるから、いかなる人も他人の生命や健康や自由や財産に害を加えてはならない、と。・・・自然状態における人間は、自然の諸法の様々の違反を、それがあらゆる秩序ある政府のもとで罰せられうるのと同様に、処罰することができる。都市の法律の大部分は、それらが自然の諸法に基礎づけられている場合にのみ、正しい。★6

フィロゾフたちがいう「自然状態」とは、原始的・未開的な放縦の状態を指すのではない。それは、自然=理性のみに基づいた、人間が本来そうあるべきところの道徳的状態なのである。

 だが、先述のように、そのような自然状態は、古代以降の悪しき文明によって見失われており、数世紀前(=ルネサンスの時代)になってようやくひとびとはそのことに気付きはじめはしたものの、いまだ「古代の蒙昧野蛮」、「無知よりも悪い状態」★7から抜けだせてはいないと多くのフィロゾフたちは考えていた。(実際には彼らの間でも、この点に関して様々な意見の相違---顕著なところでは、たとえばダランベールとルソー★8---が見られたが、いずれにせよ「第3の自然状態」を理想とする限り、自らの社会にはあまりにも自然=理性と相反する規則や制度があり、それらは迷信と権勢欲から生まれたものでしかないと考えていたことにかわりはない。)そして、いかにしてこのような自然状態を彼らの社会のうちに取り戻すか、どのようにして自然=理性の諸法則を迷妄した人為から救い出すかが、彼ら18世紀知識人たちの急迫した課題であったのである。

 ルドゥーも、同時代人としてこのような時代観を共有していた。

自然の法則は、あらゆる場所で人類を導くものであるが、いまやそれはどこにも見い出すことはできない。人類は世界という劇場の中で魔法にかかったかのように宙吊りにされたままだ。なんという気紛れ! 原理の忘却! 健康、道徳をはじめ、すべての結果が、そのような愚行に叫びをあげている。(P.xiv)

ルドゥーが理想とした社会は、彼の理想都市ショーに見てとれるように、自然法に基づいた原始的ともいえる素朴な共同体社会である。彼は、ショーでの人びとの生活を次のように描いている。

・・・幸福と安寧とは共同所有という魅力に溢れた感情のうちに宿ることだろう。そのために、この静寂の森の懐にうち建てられた共同体があるのであり、そこでは自然の簡素な法のもとに集い暮らす賢者たちが、伝説にうたわれた黄金の時代の願いをこめた至福の時間を実現しようと励んでいる。(L.3)

 このような、いわばルソー的社会を理想とする彼にとって、人びとはなによりもまず平等であるべきなのはいうまでもない。ルドゥーは、そのテクストのいたるところで人びとの平等を強調し、また、ショーの第一次案から第二次案への移行---正方形プランから円形のそれへ---は、各建物、そしてそこで働く労働者の配置上のヒエラルキーを解消するためだとも説明している。(にもかかわらず、カウフマンは、この移行を幾何学のより強い自律性をルドゥーが求めたからだとした。それに対し、ヴィドラーは、フーコーに依拠しつつ、この第二次案を、ひとつは監視のヒエラルキーをつくりだす一種のディシプリナルな装置として、またひとつは労働を演劇的行為に転じるための古代劇場のアナロジー---《生産の劇場 theatre of production》として意図的な読み換えを行っている。)★9 だが、当時の社会を見渡すかぎり、そのような「自然」的な平等はどこにも見い出すことはできなかった。

ひとびとは孤立している。現代の富は諸階級を分離させる。さらにいうなら、それを見えなくしてしまっているのだ。(P.xiv)

 自然の法則が見失われた以上、平等の状態もまた、この社会にありえるはずがない。彼を投獄に導いてまでも遂行されたフランス革命。それによって王を頂点とするヒエラルキーは解体され、その後の社会は一見、平等を謳う共和制に至ったかにみえる。だが、実のところはそうではなく、恐怖政治の到来とともに経済的状況によって別の階級差が生まれただけであった。つまり、王がブルジョワジーにとって代わられたにすぎない。それは、王政の頃のように明白なものではないがゆえに、その差を解消することは一層困難である。ルドゥーはそう考えたにちがいない。

 そのような悪しき社会で、「自然状態」、そしてそれに基づく平等はいかにして回復されうるのか。フィロゾフたちは、その手段を法や教育に求めたのだった。ひとびとのうちに人間本性として刻み込まれている基本原理(理性、自然道徳)は同一不変だが、それが習俗として外にあらわれるとき、風土や時代によってほとんど無限の多様性を示す。それは、ちょうど永遠不変の単純な自然法則と、無限に多様な物理的(所産的)自然との関係に等しい。そして、人間本性は変えようがないが、そのあらわれである習俗は、風土や時代、宗教や制度によって相違を示す以上、同じく外部要因である法や教育によって矯正可能なものとしてある。フィロゾフたちはそのように考えたわけである。じっさい、『建築書』のタイトルにも掲げられているように、この「習俗」という言葉は当時のキーワードのひとつであったとさえいえる。ここで、『百科全書』にかかれたディドロによる「習俗」の定義を見てみよう。

習俗 きまりや指示の影響を受けるところの、生来的または後天的な、善なるあるいは悪なる、人間の自由なる行い。 それは、風土、宗教、法制、政治、欲求、教育、生活様式、社会的範列の違いによって、世界の諸民族のあいだでそれぞれに、その真生性が違っている。★10

習俗は「きまりや指示の影響を受ける」のである。ディドロはさらに、この習俗への外部作用を「修正 modification」という項で詳述し、それに最も有効なのは法であるとした。また、ヴォルテールは、その著書『習俗に関するエッセー Essai sur le mœurs』において、習俗の相違の維持に最も強く作用するのは各々の政治形態であると述べている★11。このように、フィロゾフたちにとって、自然の法則から逸脱した人為は、法や教育---18世紀は「教育の世紀」ともよばれている---によって矯正されうると堅く信じられていたのである★12

 ルドゥーももちろん、この社会を正すことの必要性を強く感じていた。だが、フィロゾフたちとは異なり、その手段を法や教育などではなく芸術に求めたところに建築家である彼の独自性がある。

芸術の慈悲深い風が活動させられなければならない。芸術は、失われてしまった善の可能性をあらゆるところに見い出すであろう。(P.xv)

彼が理想とする社会は、共同所有を基礎とする階級差のまったくない、万人が平等である共同体であった。したがって、社会を正すに当たっては、なによりもまず、ひとびとの間の平等こそが取り戻されなければならない★13。そのときに、最も有効な手段であったのは、ルドゥーにとって芸術だったのである。それはなぜか。上の言葉は次のように続けられている。

芸術は、失われてしまった善の可能性をあらゆるところに見い出すであろう。なぜなら、芸術の眼にはすべてが等価であるからだ。

ルドゥーにとって、芸術とは本来、人びとの間に差別なくあるものなのだ。そして、それは強大な力でもってそれらの人びとを魅きつける。

いったい、美の専制 despotisme を感じなかったものなどいるのだろうか。この急激にして言葉も及ばぬ感情は、[ひとびとに]賛美の心を命じ、われわれの感覚 sens をその帝国 empire に従わせるのだ。(L.11)
芸術は、貧しきもの、富めるもの、権力者たち、それら芸術を必要としてきたすべてのものたちを、その帝国に服従させているのであるから、芸術が有する力はより強大であると思わねばならない。(P.xiii)

 平等を謳うわりには決して穏当といえないこれらの言葉は、革命以前のルイ王朝、あるいはまた革命後のナポレオン帝国を思い起こさせる。だが、ルドゥーの思い描く帝国は、美または芸術をただ単にそれらの統治者に置き換えただけではない。一般に帝国の統治形態は垂直的なヒエラルキーをとるが、美の帝国にあってはその形態自体を異にしている。

人びとは、美が円環の中央に座し、その恩恵を[周りへと]溢れ注いでいるのを見るだろう。(P.xv)

美をその君主とする帝国は円環状の統治形態を有しているのだ。文字どおりの中心に統治者=美が座を占め、そしてその周りを円を描きながら被統治者たちが取り囲んでいるというイメージ。円の特質は、中心という絶対的な点を持つとともに、その中心に対し円上の任意の点は相互に等価であるということである。すなわち、「その[美の]眼差しは、あらゆるものに等しく降り注ぐ(P.xiii)」のだ。このようにして、人びとの平等は、芸術の「専制」によって回復されるとルドゥーは信じたのである。ショーの円形プランは彼にとって、その信念を文字どおり具体化したものだったといえるだろう。

 また、ルドゥーは芸術と自然の関係について次のように述べてもいる。

芸術は自然から離れると、それはもはや求めるべき確信へと至ることができない。(L.63)

同時代のものたちと同様、ルドゥーにとっても芸術とは自然に即したものでなければならなかった。そして当時、自然とは即ち真理であった。

おお自然よ! 不変なる真理よ!(L.125)

 真理としての自然とそれに即した芸術---ルドゥーにとって芸術とは、人間本性として内在していたが今や忘れられてしまった自然の法則、「不変なる真理」を可視的・可感的なかたちで人びとの眼前に分け隔てなく外在化させることにより、それらの人びと、そして社会を徳へと導いていくものにほかならなかったのである。

芸術における真理はあらゆるものに対して善である。それは、社会に惜しみなく与えられる捧げものなのだ。それを見い出すことは、あらゆるものに属する権利である。(L.46)

 自然だけではなく芸術もまた真理と等号で結ばれる。「自然状態」を回復するためには、なにも原始の状態へと立ち還る必要はない。人びとのうちにおいて見失われた自然の法則は、美として芸術が人びとの外部から与えてくれるのだから。ルドゥーにとって、「芸術と自然とは、[その力において]最も学識豊かな人を欺くほどにも密接な類似関係を有している(L.123)」ものだったのである★14

notes / figures
★1
ポール・アザール『十八世紀ヨーロッパ思想』113頁 
★2
ダランベール「百科全書序論」橋本峰雄訳(『百科全書』所収)87頁
★3
同上書 83頁
★4
ディドロ『百科全書』(モリス・ギンズバーグ「近代における進歩」『進歩とユートピア』桜井万里子他訳、平凡社、1987年、107頁からの引用)
★5
ジョクール「自然状態」杉之原寿一訳(『百科全書』所収)198頁
★6
同上書 199頁
★7
ルソー『学問芸術論』平岡昇訳(『世界の名著36』中央公論者、1978年、64頁)
★8
 「おそらくここが、雄弁家で哲学者である一人の著述家がしばらく前から学問と芸術とに向かって投げている攻撃の槍を投げかえすべき場所であろう。彼は学問と芸術は習俗を堕落させると非難しているのである。この百科全書のような書物の冒頭で彼のこの見解に同意するのは、私たちにふさわしくないだろう。・・・学会はたしかに「社会」を好ましいものにするのには貢献しているが、学芸によって人間が道徳的により善良になり美徳がより一般的にゆきわたるということを証明するのは困難であろう。しかし、これは[学芸を否定することは]道徳そのものも持っていないといえるひとつ[宗教だけ]の特権である。」ダランベール、前掲書、134-135頁
 ルドゥーの思い描く理想社会はルソー的ともいえるものであるが、この点に関しては、彼はダランベールに近い立場をとっている。
ショーの初期案
ショーの実施案
実施案をもとにした理想都市への発展形
★9
 カウフマンはルドゥーの言葉を引きながら次のように説明する。「もし正方形が円形にとって代わられたなら、いくつかの[製塩所の]運用上の利点が得られ、さらに《純粋な形態(L.66)》が獲得される。彼は第2次案の長円形を誇っていた、《その形態は太陽がたどる軌跡のように純粋である(L.77)》と。まちがいなくその第2次案において、彼は明確な形態上の理念によって導かれていたのである。」Emil Kaufmann,"Three Revolutionary Architects." p.512
 これに対しヴィドラーは、ベンサムのパノプティコンおよび古代劇場を参照しつつ政治力学的な観点からその形態を解釈する。「社会的な監視は、ここでは[ショーでは]ベンサムのパノプティコンの直截な装置的ヴィジョンに比べ、より潜在的であり間接的である。・・・また、半円形という幾何学形態が連想させるふたつめのものは、ルドゥーが意図した分節化の説明に役立つ。というのは、全体としての製塩所のプランは、ウィトルーウィウスによって描かれペローとパットにより建てられた、あるいは『百科全書』においてディドロが描いた古代劇場から採られたことは明白だからである。古典の先例にしたがった正確なプロポーションを持つルドゥーの《劇場》は、工場と監督官の館を舞台に、そして労働者を観衆に置き換えるものであった。そこで行われる《劇》とは生産のそれである。伝統的なギリシャのドラマとルドゥーのその18世紀ヴァージョンとの差異は、観衆が社会的富の生産において俳優としても参加するところにある。・・・もし[古代劇場が持つ]多応答的なイメージが製塩所という劇場に移されたとするなら、監督官と労働者の社会との互恵的な関係がそこには示唆されており、それは『社会契約論』においてルソーがイメージしたものと幾分似通ってもいる。」 Anthony Vidler,"The Writing of the Walls" pp.39-40
『百科全書』の図版より。ヘルクラネウムで発掘された古代劇場の図面
★10
ディドロ「慣習」大淵和夫訳(『百科全書』所収)316頁
★11
ピーター・ゲイ『自由の科学氈x中川久定他訳、ミネルヴァ書房、1982年、309頁からの引用
★12
ルドゥーもこの見解を共有し、それを次のように表現している。「あたかも玉と石の違いがあるように、われわれを取り巻くものの磨き方によって徳を積むことができれば悪徳に身を滅ぼすこともある。(L.3)」 そして彼は、ひとびとの徳を最もよく磨きうるものとして建築を考えていたことはいうまでもない。
★13
ルドゥーは、革命前の自己を忘れたかのように階級差を強く非難している。「芸術と科学の進歩に最も反するもの、それはひとびとが自らのあいだにおく差別である。(L.144)」


★14
 自然や芸術が道徳の純化に寄与すると考えたのはルドゥーだけではない。ルソーを別とすれば、それは18世紀に広く分け持たれた見解でもあった。「人為的なものの評判は悪かったが、芸術は神聖であった。人為は自然を窒息させるが、自然は芸術によって矯正される必要がある。この深い確信は、美の表現---造形芸術であれ、文学であれ---に活力を与え、無数の論文の中で展開され、創作活動の諸確立を規定することになった。人々は、二つの観念を一つに統一しようと試みた。いわく、われわれの抱くあらゆる観念は自然なものであるから、芸術は自然である。人々は、真の自然とは芸術によって形を整えられた自然であり、自然は芸術によって拡大され、形を整えられ磨かれるのであり・・・と積極に信じた。」ポール・アザール、前掲書、370-371頁
 また、美と道徳の関係については、カントが次のようにいっている。「ところでわたくしは、美しいものが道徳的に善いものの象徴であるという。そしてただこの観点においてだけ(あらゆる人にとって自然的であり、またあらゆる人が他人から義務として要請するところの関係)、あらゆる他の人の賛同への要求をともなって、美しいものはわれわれに満足を与え、そして心情はこの際同時に、感官の印象による快の単なる感受性を越えたある醇化を向上とを意識し、かつ他の人たちの価値をも彼らの判断力の同様な格率にしたがって評価するのである。」カント『判断力批判』坂田徳男訳(河出書房新社、1989年)292-293頁