2-1
chapter 2

18世紀の自然と芸術

 ルドゥーの建築思想を読み解くための鍵語として、自然と芸術が挙げられる。だが、18世紀のそれらは、近代以降の主観主義的な立場からみたものとまったく様相を異にしていた。そこで、この章ではまず、18世紀における自然及び芸術について概観しておきたい。
2-1. 自然

 人為あるいは人工の対概念、それが自然に関する今日の一般的理解であろう。そしてまた、そのような自然をわたしたちの外部に拡がる操作可能な客体として捉えることで技術や経済の目覚ましい進展を遂げてきたのが近代という時代である。

 一方、ルドゥーの生きた時代はどうだったか。18世紀は、確かに近代へと繋がる自然観の萌芽は認められつつも、しかし、根底においてはやはり、それとは決定的に異なる自然観のもとにあった。自然とは、実体的なものでも、人間に対立するものでもない。それは、まず第一に、あらゆるものに刻印された永遠不変の真理であり、絶対普遍の原理であったのだ。ニュートンによって自然界のありとあらゆるものはひとつの厳密かつ単純な法則に従っていることが証明されたわけだが、その法則は真理の根拠と同一視されることにより、物理的世界はもとより人間の精神的・道徳的世界をもまたなんらかの形で支配していると考えられた。当時の知の体系である『百科全書』には次のような記述がある。

理性的に考えようとしない人は、人間の資格を捨てるものであり、自然に反する存在として扱わねばならぬ。★1
人間が理性にしたがって一緒に生活し、彼らのあいだの紛争に判決を下す権威を有するいかなる優越者も地球上に存在しないときには、彼らはまさしく自然状態にあるのである。★2

 近代的な理性とは、自然に相対し、むしろそれを律するものとしてある。だが、18世紀はそうではなかった。当時の自然は、人間のうちに刻まれた真理、すなわち理性と同義のものだったのだ。そのことを最も熱烈に語っているのはやはりルソーである。

わたしは相変わらず自分の方法に従うことによって、それらの[自分のとるべき行動の]規則を、高邁な哲学の諸原理から引き出したりせず、それらが、自分の心の奥底に、自然によって不滅の文字で書かれているのを見いだす。わたしは自分のしたいことについて、わたしが善であると感じるものはすべて善であり、わたしが悪と感じるものはすべて悪である。★3

 そしてまた、自然は18世紀において無限の多様性を有するものとしても捉えられた。大航海時代の幕開け、博物学の隆盛などにより(西欧にとって)未開の新世界やそれまで知られていなかった微細な差異が《発見》され、その結果、人間精神から生物にわたるまで同一のものは決してありえず、それこそが自然の特質だと考えられるようになったのである。《大博物学者》ビュフォンはいう、「自然のうちにはただ個の生物だけがあるにすぎず、種や属というものは一切存在しない」と。自然は、一切のカテゴライズを受け付けない。ありとあらゆるものが、自然というひとつの全体のなか、無限の差異、無限の多様性のもとに存在する。★4 フーコーは同一平面上に展開する秩序なき世界をエテロトピー=混在郷と称したが、18世紀の自然とはまさしくそのようなものとしてあったのだ。

 このように、18世紀の自然は、一方では厳密かつ単純な法則として、そして他方では無限の多様性という相のもとに認識されていた。しかし、そのことが矛盾として捉えられることはなく、それどころかむしろ、自然の偉大さをそれは一層確信させるものだったのである★5。ここにこそ、18世紀の自然観の最大の特徴があるといってよい。

 自然は自らのうちに単純な法則に従う造形原理としての力(能産的自然)を有し、その力の可能な限りの展開としてわたしたちの眼前に豊饒な無限の多様性(所産的自然)を繰り広げる。すなわち単純さと多様性は自然そのものに内在する力によって媒介されており、この力こそが世界を、そして人々をより善き方向に導いていく動因にほかならないと認識されたのである。

 自然がこのように捉え直された以上、神もまた以前と同じではありえない。自然が自らを生み出し運動する力を有するのであれば、常に世界に目を配り、すべてがそこに帰されるような、いわば「世界の魂」(ニュートン)としての神は不要となる。理神論者にとっては神は「万物の主」か自然という「偉大な機械」の作者であるにとどまり★6、もはや「恩寵の国」から「人間の国」を圧迫することはない。そして、無神論者にとっては自然こそが神となり万物の起源となる★7

 18世紀はどちらかといえば理神論が多数を占めていたわけだが---ルドゥーもまたそうである---いずれの立場にせよ、自然はいついかなる場所でも善かつ真である、実体的というよりは機能的な意味を持つものであり、それはまた人間本性 nature として人びとのうちにも理性という名のもとに刻み込まれているものであった。政治、道徳、宗教・・・あらゆる人間の領域が自然によって導かれなければならない★8。しかし、キリスト教や理性に反する人為の諸規則・制度により、自然は見えなくなってしまっている。すべての領域において、それらが存在する以前、始源にはそうあった筈の無垢なる自然を復帰せしめよう。これこそが18世紀の人びとの最重要課題であったといえるだろう。




notes / figures


★1
ディドロ「自然法」恒藤武ニ訳(桑原武夫訳編『百科全書』岩波文庫)212頁
★2
ジョクール「自然状態」杉之原寿一訳(桑原武夫訳編『百科全書』岩波文庫)201頁
★3
ビュフォンの場合はまだ生物的形態のイデアが保持されているが、ディドロにいたってはそれさえも否定される。彼は、自然は多様性、絶対異質性だけを知っているとして次のような美しい言葉を遺している。「万物は変化し、万物はすぎゆく。ただ全体のみが永遠に存する。世界は絶え間なしに生まれそして滅びる。あらゆる瞬間において世界は始まりつつ同時に滅びる。」(ディドロ『ダランベールの夢』)
チェンバースの百科事典より。分類不可能なまでに嬉々として集められたモノたち。
★5
たとえばマダム・ドュ・シャトレはいう。「われわれが住んでいるこの世界は最良のものであり、そこでは可能な限りの多様性がもっとも見事な秩序の下に支配されている。」(ポール・アザール『十八世紀ヨーロッパ思想』、313頁) また、ヴォルテールはパスカルに対して「人間本性の矛盾」を擁護しそれこそが人間性の豊饒さの証拠であるとして次のように反論している。「あなたが矛盾と名付けるこのいわゆる不一致は、実は人間の構成に組み入れられる必然的な成分にほかならない。かくして人間は他の自然物とまったく同様その本来的な姿を呈するようになる。」 この引用を引き継いでいわれたカッシーラーの言葉はいっそう理解しやすい。「人間本性の真の強さとそれが発揮しうる最高度の力は、この多様性のうちにこそ示されるのである。人間は自らのうちに含むこの多様な力を何ものにも把われることなく発揮し展開することによってはじめて、本来の可能性を汲み尽くした在るべき姿となる。」(エルンスト・カッシーラー『啓蒙主義の哲学』中野好之訳、紀伊国屋出版、1962年、178頁)18世紀をつうじ、これと同様のことは、人間本性 nature だけでなく、自然 nature 全体についていわれた。
★6
ニュートンは神を宇宙から放逐したりはしなかった。「この存在[=神]は世界の魂としてではなく、万物の主として、すべてのものを支配している。」(ピーター・ゲイ『自由の科学I』中川久定訳、ミネルヴァ書房、1982年、118頁) また、当時に精神界のニュートンとよばれたロックは次のようにいう。「自然の御技はいたるところで、神の存在を十分に立証している。」(バジル・ウィリー『十八世紀自然思想』三田博雄他訳、みすず書房、1975年、9頁) 無神論者と有(理)神論者の分岐点は、単純にいうなら、自然という「偉大なる機械」は「神聖なる機械工」を必要とするかという点にあった。
★7
「おお自然よ! すべての存在物の中の至高なるものよ! また自然の崇拝すべき妹御たる徳と理性と真実よ! 汝らこそわれわれの二つとなき神々でありたまえ。・・・自然よ! 汝が人間に望ませる幸福を獲得するために人間がなすべきことをわれわれに教えたまえ。」 D'Holbach,"Système de la Nature."(バジル・ウィリー、同上書からの引用、185頁)
★8
自然法、自然道徳、自然宗教など、18世紀はあらゆるものに「自然」が冠せられた。